属性なんか関係なく

「学生時代とかの友だちは、どうなったの?」

上娘に聞かれた。

うーーん・・・
どうなったのだろう・・・

みんな、すべて消えた・・・。

というより、わたしは、偏った人間なのだろう。
歪(いびつ)な性質ゆえ、友だちが出来ないのだろう。

友だちといっしょに過ごす時間を作るのことに、非常に消極的である。
お誘いがなければ、いつまでも、ずっとずっと、永遠に、会わない。
超・受身姿勢である。

友だちがゼロ人になって久しいが、ある日ふと、こりゃいかんと、
学生時代の知人を頼って、友だち付き合いを復活させてみたものの・・・
やはり、わたしには無理だった。続かない。

なぜか・・・?

理由は・・・付き合っても面白くないのである。むしろ、めんどくさくて苦痛である。
なぜ、面白くないのか?
なぜなんだろう?

べつに、楽しいわけではない。
みんなの近況を聞いたところで、べつに、わあっと、ならない。あまり興味がない。
自分の近況も、さして伝えたい心境にならない。
知って欲しいとも思わない。というか、知って欲しくない。

これは、明らかに、おかしい・・・。

学生時代、我々仲良しグループと時折合流していたグループに、無理やり後から入ろうなんて、了見が甘いのだ。
学生時代からの交流、交友の積み重ねが、直接的にはないのに、
ぽつんと時間をあけて突然、割って入っても、楽しみを共有できるわけがない。
一時的にでも入れてくれただけでも、ありがたく思わなければならない。

仲がいいから友だちなのだ。
親密でも友だちでもないのに、友だちにしてくれ、って、順序がおかしい。
友だちになりたいなら、もっと積極的にならねば。
たいして友だちになりたくないくせに、友だちがいないからって、友だちになりたがる、その考えは、へんだ。

というか、学生時代の友だちたちとは、わたしの価値観や意識が、すでに変わってしまったのかも知れない。


わたしは、もともと変わっている??
そうかも知れない

前述した通り、わたしは歪なのだと思う。
人間が、アンバランスなのだ。

器と中身が、合っていない。
ここでいう器は、見かけのことではなく、入れ物、枠。
中身は、内情、実生活のこと。
ギャップがあり、器の中は、スカスカ。

器が大きすぎて、中身が小さすぎる鑽石能量水 消委會
大きな器、大きな中身の人たちとは、自分の中身が追いつかない。
小さな中身、小さな器の人たちとは、自分の器が意外に大きくて、違和感を感じる。

じゃあ、小さな器で、大きな中身の人なら合うのではないだろうか?
それには、わたしの中身が小さすぎて、わたしの器が大きすぎて、やはり合わない。

自分の器を少し小さくして、中身を少し大きくして、
器と中身がぴったりになるよう、調整する工夫、努力をすべきだ。
調和していない部分を見直し、エコ人生を送るべき。


不動産物件の例でいうと・・・(例が、合ってない・・・)

広さ、立地、利便性、集合住宅なら何階、どの場所か、築年数、日照などの条件、近隣の建物事情、土地の特性、土地柄・・・、
そういった点を考慮して金額が決められている。
どれかひとつでも特に気に入った事柄があれば、それで決める人もいるだろうが、
大きな欠点がなければ、それでよし、ということもあるだろう。
バランスの取れているものが、一般的であろう。
また、用途が、住居用なのか、事務所なのか、店舗なのか、週末用なのか、一時住まい用なのか。
なにを指針にするか、である
仕事も、結婚相手も、友だちも、それに似ている?
トータル総合得点が、合っている人同士、グループが、友だちとして、すんなり行くことだろう。
いや、そうでもないか。

 

ここで、発想を転換してみる。
学生時代の友だちにこだわっているから、ややこしいのだ。
もう、学生時代はどうでもいい。
これから先、仕事社会から退いた世界での友人ができるといい。

どこの誰で、なにをしている人で、学歴はどうで、なんて、細かいデータは、一切いらない。

属性なんか関係なく、単体でつながる、そんな友だち。
そう考えると、友だちはいなくもない。あの人、この人、あ、その人も。
どこの誰かもわからないけれど、顔しか知らないけれど、さらっとしていて、いいのかも?
それって、友だちとかではなく、たんなる顔見知り?

まあ、「顔見知り」を、「友だち」と呼んでもいいのではなかろうか。
(実際、ちょっと挨拶程度、話したことがあるだけの関係の人を「あの人とは、友だちなんです」と
堂々と他人に明言している、そういう人もいる)
「仲間」的な感覚だろうか。

力まず、焦らず、気合を入れすぎず、前のめりにならず、
軽く、薄く、お気軽に。

友だち100人できるかな?
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